のフの独り言

一般人が日常感じた事、思った事を書き連ねるブログです

欲望の解放史③

3月24日

 

昨日に引き続き…

 

一神教は天国と地獄の設定で欲望を押さえようとしたが、一方、仏教はというと

 

仏教は一神教(あるいは多神教も)と違い、人の上に「絶対者」を想定していない。仏と言っても、「先覚者」であって、一般の人とその成り立ちにおいては何一つ変わるところが無い。人、と表現したが、実際には仏教においては人だけでなく、あらゆる生きとし生けるもの、生命を持っているものに「差」が無い。それは、動物だけでなく、昆虫も、また植物も、あるいは細菌に至るまで、その命においては同じである。

 

そして、その生命は「輪廻」を繰り返している。

 

輪廻の思想はヒンドゥーなど他の宗教にも見られるものであるが、神も仏も人も動物も植物も、生命には全く差がない、というのは仏教独特の考え方であろう。

 

現在の全ては自らの今までの行いの結果であり、今後を決めるのは現在の行いであり、それは金持ちであろうが権力者であろうが、その法則からは特別ではありえない。なので、妙な欲望などを持って悪い行いに走ると、良くない結果が待っている、因果応報の考え方が欲望を抑える一つの「装置」である。

 

しかし、仏教にはもう一つある。

 

それは、「欲をかくなら大欲をかけ」というものだ。仏教で言う「大欲」とは、成仏のことである。先ほど、仏教においては、ありとあらゆる命に差が無い、それは仏も例外ではない、といったが、つまり仏とは、生命が真理を悟った状態を言うのであって、我々も真理を悟れば「仏」となる。つまり成仏というのは生命が悟りを得た究極の状態になることで、決して「死ねば成仏」ではない。

 

少し横道にそれたが、つまり「大欲をかけ」とは「成仏を目指せ」ということで、それによって、それより小さい欲望を押さえてしまおう、ということである。人は大きな目標があれば、その邪魔になる小さな欲望を抑えることが出来やすいもので、ダイエットという目的のために、食べるという小さな欲望を抑える、大きな買い物をするという目標のために、小さな無駄遣いを抑える、というのと構図は同じである。

 

人間心理をうまく突いているな、と思う。

 

私など、日本人として物心つく前から仏教の考え方に触れる機会が多かったので、輪廻や絶対の平等感は何の抵抗もなく受け入れられるのだが、一神教の世界に生まれ育った人には馴染めない思想なのかもしれない。

 

しかし、大欲だ、成仏だ、といっても目に見えるものではない。輪廻といっても、見えるわけでもないし記憶に残っているわけでもない。そして、一神教の場合と同じように聖職者たる僧侶が堕落している様を見れば、それ以外の人が目先の欲望追求に走りはじめることを制止する力は仏教から失われる。そして、実際にそのように仏教から力は失われていった。

 

仏教のユニークなのはここからで、それは仏教が自らその堕落を予言していたことだ(あれだけ人間を洞察していれば予言できるのも当然か?)。なので、仏教が全く力を失う、とされていた「末法」の時代になると、我こそはこれからの時代を救う仏教である、という宗教が雨後の筍の如く登場した。

 

なんだか今日は論点がズレ続けるなあ。

続きは明日にしよう。