のフの独り言

一般人が日常感じた事、思った事を書き連ねるブログです

一万円札

一万円札の柄があと少しで変わるとのこと。

私の知っている限りで 聖徳太子福沢諭吉渋沢栄一 という流れだ。

国の最高額紙幣の図柄は、その国の基本姿勢を表しているように思う。最初に「和をもって貴しとなす」とし、仏教を根幹に据えた国作りを行い、日本の国柄を決定した聖徳太子、明治というそれまでの価値観が大きく揺らぐ時代にあって思想家・教育者として道筋を示した福沢諭吉。それに対して、道徳を基礎においてはいるけれども、実業家である渋沢栄一

国家の根幹が、宗教から思想、そして今度は経済へと軸足を移している気がするのは違うだろうか。経済至上主義は人を幸せにはしない。民間は放っておいても経済へ走りがちだから、せめて国家は経済を超越する価値観をキチッと示すべきでは無いのか。

 

故に私は一万円札を渋沢栄一にして経済に寄せるより、聖徳太子に戻して国家のあり方、国柄を取り戻すべき、と考える。

明治政府の宗教政策

終戦の日前後には、靖国神社を誰其が参拝した、私人だ公人だと喧しい。

これについて私見を少し。

国のために亡くなった人を追悼することは必要だと考える。

自分や自分の家族のために命を懸けてくれた人がいたら、感謝して何かしらを行うだろう、それと同じこと。だから、追悼すべきではない、という考えには反対。

ただ問題は追悼の方法である。なぜ靖国神社

 

明治になるまで、日本は統一国家ではないようで統一国家のようで、曖昧な形だった。

大和朝廷によって統一されていた古代から平安時代の日本。しかし経済の原則に負けて土地私有を認めてから各地に朝廷の力が及ばない勢力ができ、独立国のようになっていった(が独立はしておらず朝廷の権威には服する形式)。中央政府はあるけど完全地方自治、みたいなものか。それら県知事(?)の代表として征夷大将軍がいる。だが、いつの間にか県知事代表が強くなって内閣に命令を下すようになった、それが江戸末期までの日本、と私は理解している。

この段階では、国に殉ずる人はおらず、各県において鎮魂の行事が行われていたであろうから、その方式も県単位で違っていたであろう。おそらくは県知事(大名)の宗旨で鎮魂が行われたのではないか。

それが明治になり、中央政府が再統一を果たしたので変わることになる。

ここで普通であれば天皇家の宗旨による祭祀が採用されるところ。

明治になるまでは、聖徳太子が決めたように仏教が天皇家の宗旨であった。

しかし明治政府はそれを捨て、国家神道なる新宗教を作ってそれで祭祀を行う、としてしまった。こここそが問題で、この「国家神道」という「新宗教」が信仰として優れているのか否かが全く検証されていないではないか。

宗教を間違うというのは恐ろしいことで、それによる悲劇は枚挙に暇が無い。

江戸期の仏教界が堕落しきっていたことも理由にあるだろうが、今一度、なぜ聖徳太子が仏教を国家の宗教と定めたのか、というところから考え直すべきでは無いのか。そして仏教各宗派、それぞれの宗祖と呼ばれる人たちは、命懸けで宗を立てている。それぞれ主張に対立点があるのだから、ぶつけ合って誤ったものは淘汰してくべきであろう。そうして生き残った宗旨によって国家の安泰を祈り、国家のために亡くなった方々の鎮魂を行うべきであろう。

先に言っておくが、各宗祖が命懸けで立てた宗旨であるのに、他の宗旨と連盟みたいなものを組んだり、宗教会議などに参加して他宗と仲良くしているような輩は最早資格がない。なぜなら、各宗の宗祖は「この教えでなければ人は救えない!」という確信のもとに活動していたはずで、他宗でも良ければ自説を引っ込めて他宗へ入ればよいのだから。

 

靖国問題、これは日本が国家神道を中心に据えている(表向き国家としては無関係を装っているが)限り続く問題であるし、そのまま中心に据えている限り明治からの日本が百年保たずして破れたと同じことを繰り返すであろう。

大日本帝国が生まれてから破れるまで、80年弱。日本国に生まれ変わってから同じだけの時が過ぎようとしている。今、諸外国の脅威が高まっていることも、地震・豪雨・疫病も偶然ではあるまい。

国家指導者には、かつてがそうだったから、と思考停止するのではなく、今一度明治政府の宗教政策を見直し、正しい信仰をもって国の柱とせんことを切に願う。

 

ひとこと

便利とか進歩とかと幸せ不幸せには全く関連は無い

便利なモノが手に入った

医学が進歩して治らなかった病気が治った

うれしいけど幸せとは違う

望みが叶った

恐怖から逃れることができた

欲が満たされて脳内麻薬物質が分泌されただけ

麻薬を打って気持ち良くなることを幸せと言うか?

今ほどモノがなかった時代(江戸でも鎌倉でもよい)は今より不幸せか?

いまより不便ではあろうが、だからといって不幸せを感じているわけではない

ヒトは幸せになるために生きているはずで、便利になるために生きているのでは無い

便利を手に入れたときの快感を幸せと勘違いしている現代人

快感という麻薬を得るために稼がねばならない

麻薬を規制しているくせに

おかしい

無題

豪雨が続いている。

今日は関東で地震もあった、震度4の。

愛知では昨日、突風が屋根を飛ばした。

 

災害は、これからますます頻発し、戦いも起きるだろう。

食料危機も訪れるに違いない。

 

覚徳比丘はすでにいる。

私は有徳王になれるだろうか。

レジ袋有料化

プラスチックごみの削減だか何だかで、スーパーやコンビニのレジ袋が有料化された。

レジ袋が海や川に浮かんでいる光景は確かに褒められたものではない。

ごみが街中にあふれているのも良くない。

 

だが、それはレジ袋の責任だろうか?

 

レジ袋といえど、ごみになる際にキチンと分別し、処理すれば大きな問題にはならないはずだ。

海や川、街中にレジ袋が「ごみとして」あふれているとすれば、それはなぜだ?

 

捨てる人がいるからだ。

 

レジ袋だろうが何だろうが、人間が使う物・道具の一つにすぎない。

それ自体が何か意思をもって悪さをするわけではない。

 

人間の側に問題があるのであって、それをレジ袋の存在に押し付けているに過ぎない。

ならば、この問題の根本的な解決は、人間を教育・啓発するしかあるまい。

人々の倫理、公徳心を呼び起こす教育、これにつきるだろう。

 

それを、思想信条の自由を盾に潰すやつは誰だ?

そいつこそが、この問題の真犯人だ。

 

レジ袋の有料化等といった問題に視点をねじ曲げられてはならない。

黒人差別へのデモに思う

一神教は傲慢である。

その教えの中に差別を含んでいる。

 

神と神以外という、絶対に超えられない差別がそこには存在する。

創る者と創られる者と。

そして、創られた者の中にも、人として創られた者、それ以外として創られた者。

根源的な「差別」の中に教えが存在している。教えの中に根源的な「差別」が存在している。

これらを信奉する者たちが如何に叫んだところで、この世から差別は無くならないであろう。なぜなら彼らは「根源的に」差別することが「正しい」から。

 

神、とは、その程度のものである。

 

仏は違う。

仏の誓願は、すべての者を自らと同じ仏にすること。

つまり、仏と仏以外に根源的な「差」は無い、と規定している。

そして、今、人として生まれている者、人以外に生まれたもの、その違いも根源的なものではなく、輪廻を繰り返す中で積み上げてきたものの報いとしての今があるだけだ。

言い換えれば、今は人間であっても、来世がそうである保証は無く、今は人間でないものでも、来世には人間であるかもしれない、ということだ。

仏教は「絶対」の平等観に貫かれている。

ゆえに釈尊の教団に、出身階層や性別による差別は一切なかった。

 

今、黒人差別を無くそうという運動が拡がっている。

しかし、絶対の平等観を持たない、根源的に差別を含んでいる者たちが如何にそれを叫んだところで、世の中は平等にならず、新たな差別が生み出され、皆が幸せになることは無いだろう。

 

差別肯定の教えを一切捨てよ。

そして、四分五裂してしまった仏教の中から正しきを選べ。

 

その教えが流布したとき、初めて本当の幸せを実現することができるだろう。