のフの独り言

一般人が日常感じた事、思った事を書き連ねるブログです

虐待報道と法改正について

最近立て続けにされる児童虐待の報道を受けて、虐待防止のために法改正を行うという。

法を常に良い物へアップグレードする努力は怠るべきではない。その面から言えば、遅きに失したとはいえ、今回の法改正は歓迎すべきものだろうと思う。

しかし、法の整備が問題の抜本的解決につながるであろうか。

今、取りざたされている虐待も、行った父親本人は、躾であって虐待ではない、と一貫して主張しているようだ。少なくとも本人の意識の中では躾であったのだろう。だからあれほどの虐待を躊躇なく行えたのではないか。

であるならば、今後も躾と称した(行う側は躾と思っている)虐待は無くならない。

法は、行為に対して規制する効果は有るかもしれないが、日本国が憲法において思想・信条の自由を保障している以上、その下の法律において、躾を行う側の考え方を、こう考えるべき、と規定することは許されない。なので、躾だと思って虐待を行う人間が現れることは防げない。

では、叩いてはいけない、熱湯をかけてはいけない、ベランダに締め出してはいけない、などと虐待行為をいちいち挙げて規制を行うか?
それは現実的ではないし、そんな法律が施行されれば、瑣末な行為の有無などに囚われて、虐待であったか無かったかを延々争い続けるような社会になるだろうことは想像に難くない。その結果、学校における体罰の問題と同じように、今度は教育現場のみならず、家庭環境に大きな混乱をもたらすであろう。

では、そのような躾と虐待を混同するような人間の発生を抑制するものは何か?
これを突き止め、社会に広く導入せねば、本当の意味での解決は訪れないだろう。

ある事柄につき、それはこうあるべき、こう考えるべき、というのは、倫理や道徳の範疇であろう。

倫理や道徳も、不変のものではなく、かつては認められていたが現在では非道とされる行為や、逆も多々存在する。ようするに、その時代における社会的合意の産物が、道徳と呼ばれるものだ。では現在の日本の社会に、躾と虐待に関する社会的合意は存在するのだろうか?何が躾で、どこからが虐待になるのか、個人個人の意見はあるだろうが、みんなが納得できるような基準は存在するのだろうか?

現代の日本社会において、そのような合意は滅びてしまった、といっても良いと私は思う。あるいは、これは当たり前だろう、という合意が僅かにあったとしても、それを言葉にするには、思想信条の自由を侵している、という非難を浴びる覚悟をしなければならなくなる。その意味で、もはや合意は死に絶えた。

公序良俗、という言葉で表されていたものは、自由の前に敗れ去り、それを再構築することの困難さは想像もつかない。

公序良俗、当たり前、常識、世間体… それらの言葉で人々の行動が規制されていた時代は遠くなり、今は秩序と無秩序の境目にあるのではないだろうか?
人々が無秩序を望むのであれば、このまま放置すれば良いだろう、しかし躾と虐待の問題は解決しない。何とか無秩序に陥る前に、答えを探さねば、と強く思う。とはいえ、それらにがんじがらめにされていた時代を全て良かったと肯定するつもりもさらさらない。

要はバランスなのだと思うが、人々が程よくバランス感覚を身につけるためには何が必要か、そのために現在の社会から何を取り除き何を残すのか、過去の社会から何を蘇らせ何を葬るのか、それを維持するため何を作り何を壊すのか。あるいはまったく違うアプローチがあるのか…

長くなるので次の機会に続きを考えます。